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東京地方裁判所 平成10年(ワ)17121号 判決 1999年5月28日

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

理由

【事実及び理由】

第一  請求

被告は、原告に対し、二二〇〇万円及びこれに対する平成九年五月一日から支払済みに至るまで年六分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

一  本件は、保険金支払事由が発生したことを理由として保険金受取人の法定代理人(後見人)が保険金の支払を求めて訴えを提起した事案である。保険金受取人の夫であった者に対する保険金の支払が有効か否か、保険金請求権の消滅時効が完成しているか否かが争点になっている。

二  前提となる事実

1 原告は、昭和六三年五月一日、被告との間で、原告を被保険者、被告を保険者とするダイヤモンド保険ダイヤ一〇〇の保険契約(以下「本件保険契約」という。)を締結したが、右保険契約においては、原告が高度障害者となったときは高度障害保険金(以下「本件保険金」という。)が支払われることになっていた(争いがない。)。なお、本件保険契約における高度障害保険金額は二〇〇〇万円であり、約款上、右保険金の受取人は被保険者となっていた。

2 原告は、平成五年一月一日、痙攣重責発作により入院したが、痙攣発作により一時心臓が停止し、低酸素脳状態が続いたため、脳に不可逆的な障害が生じ、そのころからほぼ植物人間の状態となってしまい、将来においても回復の見込みはない旨診断され、本件保険契約にいう高度障害者になった(争いがない。)。

3 浦和家庭裁判所は、平成九年三月二八日、原告について禁治産の宣告をし、原告の母親である甲野花子を原告の後見人に選任する旨の審判をし、右審判は、同年四月一六日に確定した(争いがない。)。

4 甲野花子は、原告の法定代理人として、平成九年四月三〇日到達の内容証明郵便で、被告に対して、本件保険金の支払を請求した(争いがない。)。

5 本件保険契約の約款では、保険金請求権は、支払事由の発生した日から三年間で時効により消滅する旨規定されている。

6 原告と乙山太郎(以下「乙山」という。)は、平成元年五月二二日に婚姻の届出をした夫婦であったが、平成八年九月一七日に協議離婚の届出がされている(争いがない。)。

7 乙山は、被告に対して、本件保険金の支払を請求し、被告は、平成六年一月一〇日、乙山に本件保険金及び配当金の合計として二〇一五万六三五三円を支払ったが、乙山は、同日、これを被告に有償で寄託した。この寄託金は、平成九年一月二三日、乙山に支払われた。

8 原告は、平成一〇年七月二八日、本訴を提起した(本件記録上明らかである。)。

三  争点

1 乙山に対してされた本件保険金の支払は有効か。

(被告の主張)

高度障害保険金の受取人は被保険者であるところ、被保険者に高度障害が発生し、意識がない場合、保険金を被保険者の治療費、生活費に充てることが必要となることから、保険会社は、被保険者の法定相続人に、被保険者の財産として確保し、被保険者等から請求があった場合には即刻返還する旨の念書を提出させて、同人に支払うという運用をしているのが一般であるところ、被告も、原告の夫である乙山に対し、右念書を提出させて支払ったものである。被告の乙山に対する支払は、このように被保険者のためにされるものであるから、債権の準占有者に対する弁済に準じて有効とされるべきである。

(原告の主張)

被告は、乙山が原告を代理する権限を有しないことを承知の上で乙山に支払ったものであるから、乙山に対する支払をもって本件保険金の有効な弁済とはいえない。

2 本件保険金請求権は、時効によって消滅したか。

(被告の主張)

(一) 原告については、平成五年一月一日ころ、高度障害保険金の支払事由が発生したので、そのときから三年間の経過により本件保険金請求権は、時効によって消滅した。被告は、右時効を援用する。

(二) 債務の承認は、権利者に対してされなければならないから、被告が乙山に本件保険金を支払ったことは債務の承認には当たらない。乙山に対する支払が無権代理人に対する弁済として有効ではないというのなら、乙山に対する支払をもって債務の承認ということはできないというべきである。なお、被告が乙山に本件保険金を支払ったのは、平成六年一月一〇日である。

(三) 原告は、原告が禁治産宣告を受け、後見人が選任されたときをもって、時効進行の始期と主張するが、禁治産宣告を受け、後見人が選任される前は、事実上請求することができなかったというにすぎず、法律上の障碍があったとはいえないのであって、原告の右主張は失当である。なお、仮に本件のような場合には、民法一五八条が類推適用されると解しても、本件においては、後見人が選任されてから六か月以内に訴えが提起されなかったから、時効は完成している。

(原告の主張)

(一) 本件のように、保険金支払事由が発生したことにより被保険者が植物人間状態になったときには、被保険者は権利を行使することができないことは明らかであるから、権利を行使することができるようになるまで、すなわち、禁治産宣告がされ、後見人が選任されるまでは消滅時効は進行を開始しないものと解すべきである。原告についての禁治産宣告、後見人選任の審判が確定したのは、平成九年四月一六日であるから、消滅時効は完成していない。

(二) 被告は、乙山に対して、本件保険金を支払っており、これは被告自身本件保険金の支払義務を認めたことになるから、債務の承認があったものというべきである。したがって、支払の時点で時効は中断したものというべきである。

第三  判断

一  乙山に対する本件保険金の支払について

1 《証拠略》によれば、本件保険契約が適用になる普通保険約款によると、高度障害保険金は、被保険者が疾病又は傷害によって、中枢神経系・精神又は胸腹部臓器に著しい障害を残し、終身常に介護を要する状態になったときなどに支払われるものであり、その受取人は被保険者となっているため、本件のように、被保険者が高度障害者になって意識がない状態になった場合、高度障害保険金を誰に支払うかという問題が起きること、高度障害保険金は、高度障害者になった被保険者及びその家族の治療、生活を経済的に支援・救済するという性格をもっており、通常被保険者の家族から早急に支払ってほしいとの要請が強くされる一方、法律上は禁治産制度があるものの、家族の心情として被保険者を無能力者とすることを拒む傾向があり、また、いちいち禁治産宣告を求めると家族が求める早急な支払に対応できなくなること、そのため、被告は、被保険者の意思能力が失われている場合には、後見人が選任されていなくても、被保険者の法定相続人から、高度障害保険金が被保険者本人に帰属することを承知し、受領後は被保険者の財産として遺漏なく確保することや万一被保険者等から請求があった場合には保険金を即刻被告に返還することを誓約させた念書を徴求し、受取人である被保険者本人の口座へ振り込むという方法で高度障害保険金を法定相続人に支払う取り扱いをしており、他の生命保険会社の多くも同様の取り扱いをしていること、本件も、被告は、原告の夫である乙山から支払請求があったため、乙山に右念書を提出させて本件保険金を支払ったこと、以上の事実を認めることができる。

2 確かに、被保険者が、保険金の支払事由である高度障害者になった場合、高度障害保険金を被保険者の治療費に充てたり、被保険者の家族の生活費に充てたりする必要があるから、保険金の受取人である被保険者の意識が失われているときでも、本件のように、家族から念書を徴求して家族に速やかに保険金を支払う取扱いをすることの意義は十分に理解し得るところであり、また、そのようにしても、通常は、被保険者の利害と家族の利害は一致するであろうから、問題は生じないものと思われる。

しかしながら、右の取扱いはあくまでも便宜的なものであり、被保険者の家族にとって便宜だからといって、当然に保険金について当該家族に何らかの権限が生じるものではない。被告も、乙山に権限がないからこそ、被保険者等から請求があった場合には即刻返還する旨の念書を乙山に提出させているのであり、乙山に権限がないことを承知の上で本件保険金を支払っているのである。

3 したがって、乙山が原告の夫であったとしても、乙山に対する本件保険金の支払をもって、原告に対する有効な弁済ということはできず、また、被告が乙山に権限がないことを知っていた以上、債権の準占有者に対する弁済(民法四七八条)若しくはこれに準じるものとして有効になるとはいえないというべきである。

二  本件保険金請求権の時効消滅の起算点について

1 前記の前提となる事実記載のとおり、本件保険契約の約款上、保険金請求権は、支払事由が発生した日から三年間で時効により消滅する旨規定されているところ、本件について、原告に本件保険金の支払事由である高度障害が発生したのは、平成五年一月一日ころであることは当事者間に争いがない。

2 原告は、右消滅時効の起算点について、平成五年一月一日ころ、原告の意識は失われてしまい、以後原告は権利を行使することができなかったから、原告に禁治産宣告がされ、後見人選任の審判が確定した平成九年四月一六日をもって、本件保険金請求権の消滅時効の起算点と解すべきである旨主張する。

しかしながら、民法一六六条一項にいう「権利ヲ行使スルコトヲ得ル時」とは、権利の行使について法律上の障碍がなくなったとき、すなわち権利の内容、属性自体によって権利の行使を不能ならしめる事由がなくなったときをいうものであって、権利者の疾病等主観的事情によって権利を行使し得ないとしても、右は、事実上の障碍にすぎず、時効の進行を妨げる事由にはならないというべきである。民法一五八条は、未成年者又は禁治産者に法定代理人がいない場合には、一定の条件の下で時効の完成を停止させることにしているが、このように権利者が無能力者であって法定代理人がおらず、したがって権利行使をすることができない場合であっても、我が民法は、これをもって時効期間進行の障碍とはしていないのである。

したがって、原告が疾病のため意識が失われているとしても、権利を行使するについて法律上の障碍があったということはできず、本件保険金請求権の消滅時効は、原告に高度障害が発生したときに進行を開始したものというべきである。

3 もっとも、右のように解すると、意識がない状態のまま三年間を経過することにより、原告は、本件保険金請求権を時効によって失ってしまうことになるが、それでよいかという問題はある。本件の高度障害保険のように、被保険者が重篤な疾患に陥ることが保険金支払事由となっているような場合に、その支払事由によって被保険者が心神喪失の常況にある者になりながら、被保険者が禁治産宣告を受けておらず、したがって、被保険者を有効に代理する者がいないまま、三年の経過によって保険金請求権を時効にかからせるというのでは、被保険者の保護に欠け、被保険者にとって酷な結果になるからである。したがって、本件のような場合は、民法一五八条を類推して、時効期間満了の前六か月内に事実上禁治産宣告を受けたに等しい状態にある者、すなわち心神喪失の常況にある者については、その者が禁治産宣告を受け、後見人が法定代理権を行使し得るようになったときから六か月は時効が完成しないものと解するのが相当である。このように解しても、保険会社は、家族の知らせなどによって、被保険者がどのような状態になっているのかについて知っているのが通常であろうから、保険会社にとって酷な結果になることにはならないものと思われる。

4 これを本件についてみると、原告の後見人が、後見人就職後、平成九年四月三〇日到達の内容証明郵便で、被告に対して、本件保険金の支払を請求したことは当事者間に争いがないが、その後六か月以内に裁判上の請求をしなかったのであるから(本訴の提起は、平成一〇年七月二八日である。)、結局、右請求は、時効中断の効力を有せず、他の時効の中断事由がなければ、平成九年四月一六日から六か月の経過によって、本件保険金請求権の消滅時効は完成することになる。

三  債務の承認について

1 原告は、被告が本件保険金を乙山に支払ったことをもって債務の承認に当たるというべきである旨主張する。

2 ところで、前記の前提となる事実によると、被告は、原告の夫であった乙山から本件保険金の支払を請求され、平成六年一月一〇日、乙山に本件保険金及び配当金の合計として二〇一五万六三五三円を支払い、乙山は、同日、これを被告に有償で寄託したが、この寄託金は、平成九年一月二三日、乙山に支払われている。

原告が被告の乙山に対するどちらの支払行為をもって債務の承認といっているのかは必ずしも明らかではないが、被告が本件保険金として乙山に支払ったのは、平成六年一月一〇日であるから、仮にこれを債務の承認とみても、右期日から三年の経過によって消滅時効は完成することになる。

また、被告が乙山に対して寄託金を支払ったことをもって債務の承認というなら、寄託金の支払日から訴え提起時までに三年間の経過はないことになるが、右寄託金の支払をもって本件保険金支払債務の承認とみることは困難である。右寄託金は、本件保険金の形を変えたものではあるが、寄託金返還債務は、消費寄託契約に基づくものであって、右寄託金の支払をもって寄託金返還債務の承認になり得るということはできても、本件保険金支払債務の承認とはいえないからである。

3 のみならず、乙山に対する支払をもって、時効中断事由である債務の承認とみることはできない。すなわち、債務の承認は、権利者に対してされなければならないところ、乙山は、原告の夫ではあったが、原告から有効な授権を受けた代理人ではなかったのであり、原告自身も被告の乙山に対する支払をもって、無権代理人に対する支払として、弁済の効力を否定しているのである。実質的にみても、弁済の効力を否定される者に対する支払をもって、債務の承認としては有効と解すると、債務者は、弁済の効力を否定されて二重払いの危険を負うにとどまらず、無効な弁済をもって消滅時効の完成をも否定されることになり、債務者にとってきわめて酷な結果となる。無権代理人に対する支払によって、債務者が二重払いの危険を負担することはやむを得ないとしても、更に債務の承認と解することによる不利益までを甘受させてよいということはできないというべきである。

4 したがって、債務の承認によって本件保険金請求権の消滅時効が中断されているとする原告の主張は、採用することができない。

四  以上によれば、本件保険金請求については、消滅時効が完成したものというべきであるから、原告の本訴請求は、結局失当というほかはなく、棄却されるべきものである。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判官 大橋 弘)

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